日本沿岸域学会 「沿岸域」VOL16 No1 2002/08/04 経済学における無限の自然 長崎大学環境科学部助教授 中村修 ●有限の世界の認識  「フラスコの中にバクテリアとエサを入れたら、時間とともに個体数はどうなるだろう?」という質問を学生にすると、様々な答えが返ってくる。  図1のようにどんどん数が増えるという解答例は2割ほどある。  「どこまで増えるの?」と聞くと慌てて図を消しはじめる。フラスコの大きさが有限ということを何も考えていなかったのだ。  図2のように、フラスコの大きさまで増えて、あとはそのまま、という答えも多い。  正解は図3である。  資源としてのエサが枯渇するだけでなく、エサを食べた後にだす廃棄物や自らの死骸で環境が汚染され、資源の枯渇と汚染によってバクテリアは絶滅する。  しかし、フラスコの中に食物連鎖が成立するように他の生物も入れ、多様な生物社会を形成すれば、バクテリアだけ独占的に増えることはできないが、図4のようにバクテリアは持続的に生存することが可能になる。  これが生態学が明らかにしてきた有限性、持続性である。  しかし、経済学はちがう。明らかに生態学とは異なる世界観を有している。  経済学者は図5の一部aを見て「成長」と肯定的に評価してきた。そして、いまでも肯定的に評価し、さらなる「成長」を求め続けている。  図5のaは絶滅や破壊につながる道ではないのか、という迷いが経済学者にはない。   ●経済学者がおこなう経済学史  どのような学問でも、学問としての「体系」を備えていれば、そこにはそれぞれに共有されるべき世界観があり、それを語るためのそれぞれの作法がある。  科学史という学問は、物理学や医学など、もっぱら理系に属する学問のそれぞれの世界観、作法の特異性を明らかにしてきた。  例えば、遺伝子を対象とする分子生物学の発展の歴史というものは、直接、分子生物学の研究に携わってきた研究者の方が詳細な研究の内部事情を知り得る可能性が大きい。一方、あまりにも内部にいることで、その学問固有の作法が見えなくなってしまう可能性も大きい。  そこで科学史研究では、個別の専門分野から少し離れたところから、個別の学問の展開を評価しようという研究を積み重ねてきた。そして、個別の学問特有な世界観や作法を描き出すことに成功してきた。  さて、経済学という学問もまた一つの世界観を有している。そして、経済学を語るための共通の作法がある。  経済学史という分野では、その世界観や作法を詳細に論じてきた。ただ、科学史と異なる点は、経済学の歴史を語る研究者は、ほとんどすべて経済学者であるという点だ。経済学の基礎を学んだ優秀な経済学者が経済学の歴史を語ってきた。  経済学をまじめに学んだ人は詳細な経済学研究の経緯を論じることはできる。しかし、経済学そのものの世界観や作法を客観視し、根底から批判することは困難な作業であった。 ●経済外部としての自然  筆者は工学部を卒業後、農業経済学という分野で現場の課題(有機農業、産直など)にむきあいながら、ほぼ独学で科学史や経済学のテキストを批判的に読みこなしてきた。最初から経済学は批判の対象としてあった。  「科学が発達したのに、なぜ環境問題は深刻になったのか」「自然を破壊し、未来の生存基盤を破壊しているのに、なぜ経済成長といえるのか」  農薬だらけの農地、汚染されきった海。環境問題の解決という視点で、筆者は科学史や経済学を学びはじめた。  大学生の頃、マルクスの「資本論」を読むと単純生産や拡大再生産の説明があり、そこから、いかに労働者が資本家に搾取されているか、という話へ展開していた。  しかし、当時、公害の現場を歩いていた筆者には、単純再生産であっても資源の枯渇と廃棄物によって、その生産が10万回もおこなえるとは、けして思えなかった。ましてや拡大再生産などは、資源の枯渇と廃棄物の増加による破壊をもたらすものでしかなかった。  だが、このことを経済学を学ぶ学生に聞いても、「ここは黙って受け入れる基礎なのだ。ここに疑問を抱いてはいけない」と言われるだけであった。  近代経済学においても、市場モデルにおいて商品が取引され価格が決定されるが、このときに自然の破壊はどうなるんだろうという疑問もまた差し挟んではいけないというルールであった。  経済学の素人が何を言っているのだ、という視線が筆者に帰ってきた。  なぜなら、経済学において自然は経済外部の課題として定義されていた。自然(の劣化)は論じる必要はない、というのが経済学という学問の作法であった。  貨幣に換算できない自然を論じる者は経済学を学ぶ者ではない、という評価であった。 ●スミスの有限の自然、リカードの無限の自然  では、いったいいつから経済学という学問では自然を論じなくなったのだろうか。  アダム・スミスの「諸国民の冨」では、自然の生産性、自然の有限性がきちんと語られていた。  農業を社会の基本にしている当時の社会では、自然は経済活動の重要なテーマであった。  ところが、イギリスで工業社会が成立し、古典経済学がさらに発展していく。スミスに続くリカードは「経済学および課税の原理」を著す。  農業経済学の大学院では、リカードの経済理論ということで、7章で紹介される比較生産費説だけを読まされて、リカードの偉さを教え込まれていた。  しかし、あらためて一人で読みはじめると、驚きの連続であった。  なにしろ、冒頭で「無限の商品」がリカードの経済理論の前提としてでてくる。さらに、リカードは無限の商品のために無限の自然を仮定として設定する。  無限の商品も無限の自然も現実にはあり得ないが、イギリス一国の経済発展のためにひとまず仮定として設定して、経済成長の理論や政策を論じよう、というのがリカードの主旨であった。  こんなことは、筆者がわずかに受けた経済学関連の講義(大学院の講義)では、触れられもしなかった課題であった。  しかし、「経済学および課税の原理」を素直に読めば、有限の自然による経済の停滞と、無限の自然という仮定によるイギリスの経済成長の可能性を論じたものであった。 ●無自覚な無限の自然  例えば、ニュートン力学では、摩擦のない空間を仮定として設定する。摩擦のない空間は現実にはあり得ないが、運動の法則を論じるには都合のいい空間である。  同様にリカードが、当時世界の工場であったイギリスのために、自然を無限と仮定して成長のための経済理論を論じることは、一つの学問の手法としてはまちがいではない。実際、イギリスは大英帝国を世界中に築き、無限の自然と経済成長、莫大な冨を手に入れる。  ミルもリカード同様、無限の自然を仮定として利用するが、有限の地球ではやがて経済が停滞することを認識していた。そのうえで、経済の停滞は将来の経済学の課題であって、自然を無限とみなして成長を求めるのは、現在(当時)の経済学の課題である、と論じる。  さて、問題はその後の経済学者である。  ワルラスはリカードやミルの無限の商品に対して「無制限に増加しうる生産物はありえない」と、トンチンカンな批判をおこなう。  なぜトンチンカンかと言えば、リカードやミルは無限の商品を彼らの経済理論の仮定として設定したのであって、現実に無限の商品があると論じたわけではないからだ。  ニュートン力学を学ぶ学生が「摩擦のない空間など現実にはあり得ない」とニュートン力学を批判しているような低レベルである。  その低レベルさゆえに、ワルラスは「完全な市場」モデルにおいて無制限の商品の取引をおこなう。無制限の商品の取引には、無制限の商品の生産が不可欠である、ということはワルラスには思いつきもしない。  ワルラスは、無限の商品や無限の自然は現実にはあり得ない、と言葉の上だけで否定することで、リカードが確立した経済学の世界観である無限の自然を無自覚に利用してしまった。  そして、無自覚な「無限の自然」の活用はその後のすべての経済学者にひきつがれていく。 ●破壊と生産の逆転  経済学の抱える問題は、経済学が無限の自然を仮定としていることではない。  そうではなく、すべての経済学者が無自覚に無限の自然という仮定を利用していることである。  自然を経済外部の問題として処理する(つまり、経済学では自然は論じない)、という経済学の作法がこれである。  自然が無限であれば、経済政策さえうまくやれば商品は無制限に生産できる。それゆえ、(無限の自然を前提とした)経済理論からは無限の商品、無限の成長が必ず導かれる。これを同義反復、トートロジーという。  トートロジーに陥った経済学者は、現実において地球規模での環境問題が論じられているのに、経済理論では「持続的成長」として成長を追い求めようとする。  石油を掘って利用することは石油の枯渇や炭酸ガスによる温暖化につながるのだが、それを堂々と生産とよんで疑わないのが経済学者である。自然を消費し破壊しているのに生産と信じて疑わない集団。それが経済学者である。  図6は人口増加と経済理論をあらわしている。リカードやミルが地球の自然を無限とおいて経済成長を論じても、それは有効な仮定であったかもしれない。しかし、いまや地球の人口は65億人である。  200年も昔に設定された無限の自然という仮定を使い続けて、経済理論だけは精緻になった。  かつて、成長や生産は人類の希望であった。  しかし、現在はそうではない。成長や生産は破壊でしかない。  停滞し縮小する経済こそが人類に残された希望である。しかし、成長ではなく縮小、無限ではなく有限の商品という仮定や概念をとりいれる学問的センス、例えば生態学的センス、が経済学者には欠けている。  確かに、われわれの目の前の経済は競争と成長に明け暮れている。経済学者が目先を変えた新しい成長の手法を論じれば、企業は喜び、政府は優れた学者として求めてくる。  ここには、現実を語る、と言いながら目先の利益に埋没している経済学者の姿しか見えてこない。  一方、目に見えない未来を語るには生態学や環境学などの知的センスだけでなく、希望のための強い思いが必要である。  経済学という学問は、いまや学問としての正統性もなく、人類の希望を求めるものでもなく、ただ当面の利益をもとめる道具でしかない。しかも、近年は、それさえも有効ではない。 参考文献:拙著「なぜ経済学は自然を無限ととらえたか」日本経済評論社 1995年 図6 人口増加と経済理論 出典:「なぜ経済学は自然を無限ととらえたか」1995